2007年6月12日火曜日

山田洋次監督


映画『男はつらいよ』の監督は山田洋次監督です。
渥美清がいなければ“寅さん”もいないといえるでしょう。
山田洋次監督が撮らなければ“男はつらいよ”もなっかたのではと思います。
『男はつらいよ』をここまで大ヒット映画に作り上げた山田洋次監督には、
「映画というものはひたすら、それを見る人の幸せを願ってつくらなければならない。」
こんな心情をもって毎回『男はつらいよ』を撮っていたと聞きました。
山田洋次監督を慕う“山田組”という映画製作集団があるともいいます。
スタッフ、役者が一団となり、
“良い映画をつくる”との信念の為の団結力たるやもの凄いと聞きます。

渥美清をはじめ役者、スタッフ、山田洋次監督の団結力あっての
映画『男はつらいよ』なんですね。
渥美清が亡くなった時に人気シリーズ継続を望む声にも
あえて・・・
「寅さん映画はこれで終わりです。」とキッパリ言い切ったそうです。
渥美清と山田洋次監督の信頼関係がよく理解できます。



~山田洋次監督とは~

山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、大阪府豊中市出身の映画監督、脚本家、関西大学大学院客員教授。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て、1961年に『二階の他人』でデビューする。以降、『男はつらいよ』シリーズをはじめとする膨大な数の人情劇を、実に精力的に発表し、絶大な大衆的人気を誇る。中国などでも、俳優・高倉健とともに日本映画界の第一人者としてよく知られている。日本共産党を強く支持している。いわさきちひろ美術館理事。

作風は、落語等の影響を受けており、主に人間ドラマに焦点を当て、ユーモアとペーソスに溢れたものである。奇を衒った様な映像、性的描写や暴力表現等、安易に人目を惹く様な表現は抑制し、一般人や社会の逸れ者のささやかな日常生活に潜む喜びと哀しみを丹念に描く。

日本で最も人気のある映画監督の一人だが、一部の評論家や、他の映画監督・演出家等には新鮮な映像手法や凝ったストーリー性に欠けると言われる。蜷川幸雄などのアンチも多い。

来歴
1931年、大阪府豊中市生まれ。満州鉄道のエンジニアだった父親の勤務のため、2歳で満州に渡り少年期を過ごした。終戦後の1947年、大連から一家で日本に引き揚げ、15歳から18歳までを山口県宇部市の伯母の持ち家で過ごした。流れ者や社会の逸脱者を多く描くのは、山田自身の引き揚げ体験が強く影響している。

旧制宇部中(現在の山口県立宇部高等学校)を経て旧制山口高等学校(現在の山口大学)在学中に学制改革を経験。新制の東京都立小山台高等学校から東京大学法学部に入学。怠学による出席日数不足で中退するつもりであったが、1954年に東京大学を卒業して、松竹に入社する。野村芳太郎作品の脚本家・助監督を務めた。1961年、『二階の他人』で監督としてデビューした。

大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。ヌーヴェルヴァーグ派が松竹から独立して行く中、松竹大船調路線の後継者として『下町の太陽』、『馬鹿まるだし』等のコメディを中心とした作品で企業内監督の道を歩む。

1969年、『男はつらいよ』を発表。その後27年間に全48作が製作される大ヒットシリーズとなり、国民的映画とまで言われた。車寅次郎役である渥美清の体調が優れなくなってからは、甥の満男を主役としたサブストーリーが作られ、さらに渥美の病状が深刻になってからは、年2回作られていた『男はつらいよ』シリーズを年1回に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らす決断をするが松竹の経営事情などにより映画の制作は続けられた。第47作と第48作は、ドクターストップがあったものの無理に出演して貰ったものである。1996年8月13日、「寅さんとのお別れの会」で弔辞を読んだ。渥美の死去によって男はつらいよシリーズを失った4年後には大船撮影所が閉鎖され、監督としてメガホンを取る機会も減ってしまった。

大船撮影所が閉鎖されるまで、松竹の経営を支え続けた。

2002年、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』を発表する。山田にとって、『運がよけりゃ』に続く2度目の時代劇であり、藤沢作品を初映画化したものであった。他の時代劇では無視され続けてきた“位の低い”武士の苦悩を描いた物語である。構想に10年を掛け時代考証に徹底して拘った。登場人物が綺麗な新品の服ではなく、着古した古着を着ていたり、毎日月代を剃るはずが無いから、剃った部分に髪が生えてくる等の実に細かい部分をリアルに丹念に描いた。新鮮な時代劇と話題を呼び大ヒットとなった。真田広之と宮沢りえの演技力もあって、出色の時代劇と評価され、日本の映画各賞を独占した。1990年代後半以降低迷していた宮沢の見事な復活作ともなった。

2003年2月、第57回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される。2004年、「第76回アカデミー賞外国語映画賞」の候補になったが受賞はならず。同年、再び藤沢原作の時代劇『隠し剣 鬼の爪』を発表し、またもベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品される。

2006年9月、大相撲横綱審議委員の山田は、「部員不足解消に役立つなら」と、OBである東京大学相撲部の名誉顧問となった。京都大学との交流戦を観戦し、「初心者にしか見えない学生が鼻血を出しながら立ち向かう姿が愛しい」と興奮した。

2007年は自身の監督作『幸福の黄色いハンカチ』がハリウッドでリメイクされる事が決定。高倉健の演じた主人公はオスカー俳優・ウィリアム・ハートが演じる。


学歴
旧制宇部中学校(現在の山口県立宇部高等学校)卒業
旧制山口高等学校に学制改革のため1年間のみ在学の後、東京都立小山台高等学校卒業
東京大学法学部卒業

受賞歴
日本アカデミー賞監督賞(第1回、第15回、第17回、第26回)
菊池寛賞
芸術選奨文部大臣賞
日本映画復興賞
ブルーリボン賞監督賞
毎日映画コンクール監督賞
毎日芸術賞
山路ふみ子映画賞
紫綬褒章(1996年)
文化功労者(2004年)

主な作品
「男はつらいよ」シリーズ(全48作、1969年~1995年)
「釣りバカ日誌」シリーズ(1988年~) 脚本のみ
「下町の太陽」(1963年)
「馬鹿まるだし」(1964年)
「馬鹿が戦車でやってくる」(1964年)
「なつかしい風来坊」(1966年)
「吹けば飛ぶよな男だが」(1968年)
「家族」(1970年)
「幸福の黄色いハンカチ」(1977年)
「遥かなる山の呼び声」(1980年)
「キネマの天地」(1986年)
「ダウンタウン・ヒーローズ」(1988年) ベルリン映画祭コンペティション
「息子」(1991年)
「学校」(1993年)
「虹をつかむ男」(1996年)
「学校II」(1996年)
「虹をつかむ男 南国奮斗篇」(1997年)
「学校III」(1998年)
「十五才 学校IV」(2000年)
「たそがれ清兵衛」(2002年) 米アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、ベルリン映画祭コンペティション、ハワイ映画祭グランプリ、香港電影金像奨アジア映画賞
「隠し剣 鬼の爪」(2004年) ベルリン映画祭コンペティション、イスタンブール映画祭グランプリ
「祖国」(2005年) 原作・脚本のみ
「出口のない海」(2006年) 脚本のみ
「武士の一分」(2006年) ベルリン映画祭招待作品

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Amazonより画像引用:山田洋次 全仕事 ぴあ出版社